村井邦彦さんの日経に掲載された回顧録からのロンドン録音に関する引用
その頃、日本楽器製造(現ヤマハ)社長の川上源一さんに呼ばれ、アドバイスを求められた。ヤマハはクラシック路線で成長してきたが、川上さんは音楽教室でポピュラー音楽を教え、エレクトーンを売り、合歓(ねむ)の郷(さと)(三重県志摩市)で音楽祭を開くなどポピュラー路線を推進していた。
川上さんとはウマが合い、公私にわたる付き合いになった。そんな折、ヤマハ音楽振興会の幹部から「ヤマハのコンテストでグランプリを受賞した『赤い鳥』にはぜひともプロになってほしいのですが断られて困っています。村井さんからくどいてもらえませんか」と相談を受けた。
僕は偶然テレビで赤い鳥を見て「うまいなあ」と感心していた。山本(当時は新居)潤子と平山泰代のメゾソプラノ2人による美しく力強い声と後藤悦治郎のハイトーンが絶妙に溶け合い、下から山本俊彦のテナーと大川茂のバリトンがしっかり支えている。
僕にとって理想的なコーラスグループだったから、すぐに兵庫県まで会いにいった。しかし彼らは一向に首を縦に振らない。グランプリの副賞は欧州旅行と聞いて「記念にロンドンでアルバムを1枚録音してこよう」と提案した。
ロンドンで再びプロ入りを勧めたら決心してくれた。山本潤子の記憶によれば、僕は「一緒に日本の音楽を変えよう」と言ったらしい。確かにそんな話をした気がする。ロンドンの録音はビージーズのマネージャー、ロバート・スティグウッド配下のプロデューサーに担当してもらい、英国でもシングル盤を出した。